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御聖体の大祝日   Festum sanctissimae Eucharistiae              


 あらゆる秘蹟中最も聖くして又最も聖寵豊かなのは御聖体の秘蹟である。その御制定の次第に就いては聖木曜日に祝うが、何しろその日は最後の聖晩餐に次いですぐ御受難が始まるので、到底思う存分喜びに浸り尽くす訳にはいかぬ。この故に本来、聖三位一体の大祝日の週の木曜日に、聖木曜日の喜びを補うため、特別に至聖なる御聖体を讃える祝祭を行う。これが即ち御聖体の大祝日であって、この日我等は祭りと行列とを以て、御聖体に籠もり在す天主に、彼がその秘蹟を制定し聖会に与え給うた大いなる恩寵を感謝し、主を恭しく礼拝し、同時にこの至高なる玄義に対する信仰を公に示すのである。

 今御聖体の祝日の始まりを尋ねれば、これを提唱したのはリエージュの聖女ユリアナで、1246年司教ロベルトが御聖体の御制定感謝の為まずこの記念日を設けた。次いで1264年に以前リエージュの司教座助祭であった教皇ウルバノ6世がそれを8日間の祝典として全世界に守らしめる事とした。同教皇の御命令を受けてその為の典礼を編纂したのは有名な聖会博士アキノの聖トマである。御聖体行列は右の祝日が設けられてから何時からともなく行われるようになったものである。

 (1)御聖体の祝日に祝われるのは信仰箇条中の一つの玄義である。天主の御智慧は人の心では到底考えもつかぬような方法を案出され、その全能を以て実現し給うた、「これわが体なり、これわが血なり」という聖変化の言葉により、キリストは神性と人性、霊魂と身体、肉と血を以て、パンとぶどう酒の形色の中に、その形色の存する限り、真に、実に、本質的に籠もり在すのである。この玄義を信じ易からしめる為、主は御聖体の御約束を為し給う前まず準備として二大奇跡を行い給うた。その第一は五つのパンで五千人を飽かしめ、なお十二の籠を充たす程の残りくずを生ぜしめ給うた事でキリストはこれによって御自分がパンに対し全能を有する事実を教え、かように数を殖やす事が出来ればその本質を変えることも出来る旨を諭されたのである。次に奇跡の第二はその晩嵐の湖上を一里半ほども歩まれた事で、これは主が御自分の御体を如何様とも為し得それを水中に沈まぬよう保ち得給う以上は、それをパンの形色の下に隠す事もお出来になるに相違ないと人々に悟らしめ給う為であった。
 この二つの奇跡の後、イエズスはカファルナウムで「我が与えんとするパンは、この世を活かさん為のわが肉なり」及び「わが肉は実に食物なり。わが血は実に飲み物なり」と明らかに御約束になった。そして多くのユダヤ人達、否、御弟子達までがこれを信じ難しとして主の御許を立ち去ろうとした時も、主は敢えてそれを引き留めもされず、また先の御約束の言葉を弱めも減らしもされなかった。その上使徒方に対してすら、これを信ずるか、然らざれば去れという態度をお取りになった。けれども幾度も主の奇跡を目撃している彼等には、その信じ難い御言葉を信じるのも別に難しい事ではなかった。
 「主よ、汝こそ永遠の生命の言葉を有し給うなれ。我等は汝が天主の御子キリストなる事を信じかつ悟れり!」
 御聖体御制定の御言葉も劣らず解り難いものであるが、主がそれを仰せになったのは、最も厳粛な告別の時であって到底御弟子方や世の人々に、曖昧な、いい加減な、間違ったことをお教えになったものとは思われない。
 それに自然界の変化も主の御言葉を信ぜしめる助けになる。例えば穀物の種子は穂になり、ぶどうはぶどう酒に変わり、花は蜜を生じ、飲食物は肉や血に変ずる、聖変化の前祭壇に降り給うのはこれらの不思議な自然現象をお定めになった同じ全能の天主であることを忘れてはならない。故に我等は、五官ではこの玄義が正しく悟れず、パンとぶどう酒としか見えなくても、アキノの聖トマと共に「御身においては見ゆる所、感ずる所、味わう所は真実ならず」と叫び、五官を恃まずやはり聖トマのように「聴覚は我に確かなる信仰を与えたり」といおう。我等はこの耳でキリストの聖会の唯一無二なる聖教を聞き、天主聖子が啓示し給うた永遠の真理を信じた。されば我等は御聖体を訪問し、御聖体降福式にあずかり、しばしば御ミサを拝聴して御聖体を受け、御聖体の御前で恭しく振る舞い、身も心も清く保って己の信仰を現そう。

 (2)至聖なる御聖体はまた愛の玄義、愛の秘蹟である。「我は世の終わりまで日々汝等と共に居るなり」というキリストの御約束は祭壇における御聖体の秘蹟によって実行された。かくて主は秘蹟において我等の中に在し、その地上のご生活を継続し給うのである。
 愛弟子聖ヨハネは御聖体の主の御愛に就いて語って曰く「イエズスはかねても世にある己が弟子を愛し給いしが、極までこれを愛し給えり」と。主は畏くも人間の間に、それも前の如く唯パレスチナの一カ所に留まらず能う限り至る所に在すことを喜び給うのである。地上なる主の御星、御聖櫃前の常住燈(永遠の火)が大空の星の如くほとんど無数に存するのもこの故に他ならない。主は一国の民ならず諸国の民を憐れみ、祝福し、幸福に導き給う。そして昔通り病める者死に臨める者を見舞い、聖き糧として永遠の旅行の道連れとなって下さるのである。
 しかもその聖櫃に在す御有様を見れば、さながら囚人にも等しい。彼は何時如何なる場合にも我等に逢うを喜び給う故に、敢えてその蟄居に甘んじ給うのである。彼は「我に来れ、我汝を休ましめん」とあらゆる労苦に疲れし者を招き給う。我等を優しき聖言もて慰め、御鑑もて教え導き、聖寵もて強め励まし、殊に御聖体の御自らを与えて幸福ならしめ給う。
 かようにして主は善人の許にも罪人の許にも、快くおいでになる。そして我等の為パンの形色の奥深く隠れて、かつて人として受け給うた通りの相も変わらぬ侮辱、軽蔑、冷遇を忍び給うのである。ああ、誰がこれほどの没我的、犠牲的な愛を悟り得よう?誰がこれほどの有難い愛に値しよう?我等は少なくとも信仰に従って御聖体の主に恭しい尊敬を献げ、その限りない御愛に報いるに愛を以てせねばならぬ。この愛さえあれば、我等はどうしても御聖体の主を讃美する為、行列を為し、その御道筋を美しく飾らずにはいられなくなる。また年中聖堂を清め飾る手伝いを為し、その為応分の寄付をせずにはいられなくなる。アッシジの聖フランシスコは司祭のみが御聖体を造り授ける権能を持っている所から、彼等を特別に尊敬した。我等も同じ理由により、祈りと犠牲とを以て善き司祭がたの多数与えられん事を願おう。